大雨の激しさは何が限界を決めている?

広島で,10分間に20mm以上,1時間に130mm,あるいは2時間で200mmに達するような猛烈な雨が降り, 多数の土砂災害が発生した。

ただ,世界を見渡すと,1分間で38mm降っただとか(2280mm/h),8分で126mm降っただとか(945mm/h),瞬間的とはいえその10倍を超えるような想像を絶する短時間強雨の記録がある。降水強度は100mm/hあたりに物理的な限界があるわけではないようだ。

世界記録を確認するため米国海洋大気庁(NOAA)のサイトを覗いてみよう。

http://www.nws.noaa.gov/oh/hdsc/record_precip/record_precip_world.html
World record point precipitation measurements

時間が短いほど降水強度の記録が大きいことは当然に予想されたことだが*1,値を図1のようにプロットしてみると,大雑把に時間の -0.5乗に比例することに気づいた。しかも,恣意的に選んだごく狭いレンジではなく,上記リンクの全データ,1分から2年間にいたるまで幅広く成立する。


図1: 降水強度Rと継続時間Tの関係
横軸が時間(h)で縦軸が降水強度(mm/h)
○は実データであり,赤線は R=350/sqrt(T)

放射性壊変のように完全に独立な事象ならともかく,ある時刻の降水量と別の時刻の降水量が密接に繋がり,周期性や季節変化などもある現象で,単一の冪でこれだけ表現できるのは意外であった。

地球の平均降水量は0.1mm/h (~1000mm/y) ぐらいであり,雨の多いところで大雑把に1mm/h (10,000mm/y)なので,時間を大きくしていく極限では1mm/hくらいに収束するだろう*2。一方で,短時間の極限でどこまで降水強度が上がるのかはグラフや記録からは読み取れない。個々の雨粒を分解するような短い時間になると,適切な降水強度の定義を考える必要がありそうだ。

私は短時間強雨の世界記録がどういう物理によって制約されているのか不勉強で計算できる水準にない。(10m/s)*(10g/m^3) = 360mm/hなので,大雑把には空中に保持できる雨粒の限界と,地面に叩きつける速度,湿った温かい空気の供給速度などが,限界を決めているのだろうと想像しているが,細かなプロセスまで含めて基礎的な過程から導出したい。

そんなにすぐに答えが分かるとは期待していないが

検索すると,下のように個々の記録について評価したものや,あるいは図1と同じ内容のグラフはいくらか見つけた。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjshwr/23/3/23_3_231/_pdf

(どういう物理でそうなっているのか知らないが)降水量は,対数正規分布に従うだとか,ガンマ分布に従うといった文献も見つけた。

気候によって冪が違うかも知れないし,オーストラリアの極値を見る限りでは,短時間極限で降水強度の頭打ちがあるようにも見える。

http://www.bom.gov.au/water/designRainfalls/rainfallEvents/worldRecRainfall.shtml

ちゃんとやるには片手間では済まず作業量が発散しそうなので,今日はこの辺で。

(詳しい方の解説は大歓迎です。)

*1:38mm/1minの記録が認定されていなかったり,126mm/8minの記録は真ん中で分割すると,どちらかの4分(<5分)で63mm以上降っている筈なので,63mm/5minの記録がその時間での世界記録にならない筈であることなど,データの扱いには幾らかの留意が必要

*2:極限といっても,Tが100億年を越える領域では,太陽の寿命が尽きるなどまったく異なる値に収束するだろうが

ヒャッハー,数式が使い放題だぜーー

http://staff.hatenablog.com/entry/2014/05/23/154617


はてなブログTeXの表示が美しくなったと聞いて,思わず「はてなブログ」をサインアップしてしまった。

 m \vec{a}=\vec{f}

 \partial_{\mu}F^{\mu\nu}=j^{\nu}

 \Psi \sim  \left| バ \right>\bigotimes \left| ナ \right>\bigotimes \left| ナ \right>

 n \in \mathbb{N}

\left< \omega_1, \cdots ,\omega_n\right>_\beta = \int_{[ \overline{\mathcal{M}}_{0,n} (X,\beta) ] ^{vir}} ev^{*}_1 (\omega_1 )\cdots ev^{*}_n (\omega_n )

ちゃんとまともに表示されるようになって,素晴らしい限り。はてな万歳。デフォルトでTeXが使えることは,ブログサービスを選ぶ上でかなり重視しているが,今までは「一応使える」に過ぎなかった。

はてなダイアリーTexもアップデートされると嬉しい

新たなる道

新生活のバタバタで遅くなってしまったが,4月から新しい場所で新しいことをしていることを報告しておきたい。

どこからどこに遷移したかはこの場ではお答えすることができないが,大学から別の公的セクターに移っただけであるし,身分を含めて様々な変化があったとはいえ,やることの基本はあまり変わった気がしない。コミュニケーションが大事であること,装置や物理現象・数式に関する十分な理解を必要とすること,共通点は他にも無数にある。

ここまでくるのに色々なことがあった。厳しかった方,根気よく指導してくださった方,悩みなどを相談した方,様々な手続きをしてくださった方,食堂などで日々会話をした方,そうした非常に多くの素晴らしい方々のお陰で今この場所にいる。そのことについて心から感謝したい。

本当に,ありがとうございました。

そして,これから5年10年,よい結果がだせるよう精進していきたい。

万里の長城の内側から

はてダは見れるようなのでテスト投稿

まだ何がつながって何がつながらないのかよくわからないな。ヒウィヒヒーがみれないのは予想された通りだけど、はてブも見れないし。

この程度のことを書いても「こんな夜中に誰だろう」にはならないとは思うが恐る恐るポスト

人工知能:東大入試からシンギュラリティまで

メディアや他の方がいくつか報告を上げているが、土曜日に『ロボットは東大に入れるか』の講演を聞きに行ったので気づいたことなどをメモしておこう。

人工知能にとっては、センター数学よりも東大二次数学の方が解きやすいことや、図形や文の構造を理解することがどうしようもなく難しいことなど、AIと人間の違いに関するいくつかの側面を興味深く受け取った。

「人間のように思考する」といった曖昧で高すぎる目標ではなく到達度を客観的に評価しやすい入試問題をターゲットに選んだのはよい着眼点だと思う。もし2021年までに、東大入試クラスの読解力や問題処理能力を獲得したならば、技術文書を要約したり、国会答弁を自動生成したり、様々な産業応用が可能になるだろう。

模試の結果はもっと惨憺たる有り様になると思っていたが、センター試験では 387/900、2次試験は(今回は数学のみだが)合格者平均を超えるなど、予想していたより結構できていて感心した。まだまだ合格までの道のりは長いとはいえ、現代文ですらそれなりに点をもぎ取っているのが面白い。

数学

数学は特に興味を引かれた。解けてる。

コンピュータによって自動的に定理を証明する試みは古くから行われてきたが、数学の研究は未だに自動化出来ていない。しかし、いつの日にか人間を遥かに超え、想像もつかないような数学の世界を示してくれることを期待している。

今回の数学は以下のように求めている。

  1. 問題文を言語解析し、論理式(一階述語論理)に変換する
  2. 論理式を書き換えて、数式処理システムが扱える形式に変換
  3. 数式処理システムが、解答を作成し出力。

ほとんどの数学は一階述語論理とよばれる論理式で表現することができる。日本語で書かれた問題を、論理式に変換するのが第一ステップだ。ここだけはまだ半自動で、人の手が介在する。論理式に正確に置き換えることができれば、あとは完全自動でMathematicaのような数式処理システムが限量記号消去法(QE)などを用いてゴリゴリと等価な式に変形し、解答を作成する。

例えば、『すべてのxに対して f(x)=x^2+ax+bが正となるようなa,bの条件を求めよ』という日本語の文章を『  \forall x \left( x^2+ax+b>0 \right) 』という論理式に置きかえて、これをQEによって等価な式に書き換えながら \forall x のような限量記号を消去し、『a^2-4b<0』という答えを見つけ出す。

問題文を論理式に変換できたからといって必ず解ける訳ではない。定式化のやり方によっては、コンピュータで解けないほどの計算量になる場合もあるし、まだ実装が不十分でちゃんと扱えない単元もあるようだ。現在の東大入試ロボットは、微積や数列、代数・幾何などは比較的得意でも、三角関数整数論が苦手だったりまだまだ改善する部分はある。

特徴的な答案

解答は人間の答案とは似ても似つかないが、絶対に計算ミスしないし、正解した時は完全に正しい答案になるのでその大問は満点だ。外れれば0点である。『人工知能』という名のホームランバッターに部分点はない。解答はどんな分野の問題でもすべて同じフォーマットになる。

問題文は次の論理式と等値である。〜論理式〜 この式は実閉体の体系RCFの式であることから、ほげほげの定理により、このしきと等値で量化子を含まないような式を求めることができる。ほげほげの量化子除去アルゴリズムをつかって、上記の式を書き換えた結果が以下の式である。 答えがズドン

文系理系ともに、2大問をこのような解答で満点を取り、1大問は計算量が爆発して解答に辿り着けず、残りは白紙という結果。これでも偏差値60になるが、当たり外れが運次第なので成績は安定しない。

人工知能にとってはセンター数学のほうが難しい

数学ロボットが面白いのは、人間と違って2次試験の方が得意なことだろう。問題文が論理的で簡潔であればあるほど解きやすくなる。人間にとっては東大生の2%しか完答できないような難問であろうとも、問題文が明確でありさえすればあっさり解けたりする。

逆に、センター試験のように問題文が長くなり誘導を付けられると人工知能は苦戦する。途中でちょっと転ぶと後は全滅だし、多数の文の関係を評価する国語力が求められる。そもそもロボットと人間では思考の流れが全く異なるので、人間の思考に沿った誘導は親切どころか撹乱にしかならない。

しかし、結果はなかなかのものだ。例えば数IAなら、全部で4設問あるうちの最初の2つ(方程式・論理・二次関数)は満点を取るなど、上手くフィットすればしっかり解ける。残念ながら第三設問(三角比・平面図形)の途中で躓いたあとはすべて白紙だが、57点を獲得し平均点を超えている。

ちなみに第四設問は『場合の数と確率』で、これはコンピュータにとって相当な国語力が要求されるのか0点である。「カードを取り出してシャフルした後、印をつけ」みたいな多様な文を論理式に変換するプログラムは大変らしい。

国語

次に興味をもったのが国語だ。文章を適切に解釈することはすべての科目に通じる重要な課題だ。「読解力とは何か」という問いにはまだ手がでないので、とりあえずは「点数が解ければよかろうなのだ」の方針で試みているそうだ。

文章を理解していなくとも、単語ベースの手法で傍線部解釈問題をそれなりに選べる事には驚いた。しかし、ダミー選択肢を作る手法としてよく用いられる論理の逆転には瞬殺される。

今回のセンター模試は、小論18点、小説24点、古文20点と振るわなかったようだが、ランダムに選ぶより有意に高い。小説は絶望的かと思いきや結構取った。現代文では、68点をとったこともあるそうだ。

予想よりできているのは喜ばしい。だが、文の構造を理解できるようにならない限りさらなる高みは難しいだろう。センターは適当にお茶を濁せるかもしれないが、2次試験はワードサラダみたいな答案では通用しない。


すこし外れるしうろ覚えだが、『傍線部が指し示すもの』が傍線部のどこに分布しているかみたいな統計データは興味深かった。上のグラフは実際のデータではないが、傍線部の前後にピークを作る。その分布に合わせて重率を掛けて単語をマッチングしていったりすると面白い。

英語

英語の結果が悪いことには驚いた。センター英語は正答率が26%なので、ランダムに選んだのとさほど変わらない。すべての科目の中で一番悪い。解けていると言えるのは、発音・アクセント問題だけだ。

英語が125点くらいまで上がれば全科目の合計が受験生の平均点を超えるし、伸びしろは沢山あるので今後の進展に期待したい。

ただ、東大生のセンター英語の正答率は96%だそうなので、その水準に達するには凄まじい改善が必要だろう。そのレベルに達したならば、Google Translateをはるかに超えるAIが出来ているはずで、逆に言えばGoogle並に何百億と研究費を投じても簡単ではないだろう。

物理

物理シミュレータに放り込んで数値実験という発想は無かった。数学よりも国語力を必要とし、図形解釈もあるので先は長い。文章から状況を復元するのは人工知能にとって非常に難しい問題だ。そして物理の問題には書かれていない常識がたくさんある。


例えば、これは途中で宙返りするジェットコースターの図だが(東大2010)、これが『曲線と円が接している』ではなく、この線がひとつながりの線路であることを認識しなければならない。問題文と図を使った複合的な理解が求められる。

社会(日本史&世界史)

歴史がそれなりに取れるのは予想していたので特に驚きはない。両方共6割弱といったところで、他の教科と比べて悪くはない。ただ、東大を目指すなら9割はほしいので、深い文章理解という壁がまた立ちふさがる。

総評&その他

2次試験でどのくらい悲惨な答案をつくるか期待していたのだが、今回は数学以外はトライしていなようで残念だ。

文章の理解に関しては、まだ目標の1%にも達していない印象を受けたが、人工知能ワトソンも最近まではさんざんだったのでブレイクスルーがあるかもしれない。そして、文章を理解できなくとも、多くの私立大学に合格する成績を叩き出せることは新鮮だった。

人工知能研究はなかなか思うように進まずブームと冬の時代があり、エキスパートマシンや第五世代コンピュータといったある意味では黒歴史のような単語を聞けたのはよかった。最近は、GoogleAppleなどが人工知能研究に膨大な投資を行っており、第三の波が訪れつるあるそうだ。Googleは様々な人工知能を研究しており、例えば自動運転は既に50万キロ走り人間より事故率が低い状況にあるそうで、担当者が「人間は運転に向いていない」と豪語するまでになっているという話など、AIについて明るい展望も聞いた。

未来:人工知能に期待すること

ある決まったフレームの元であっても、問題を理解しそれに対して適切な答えを作ることができる人工知能が生まれたら、それは驚くべき進展だ。そして、それは東大入試ロボットが目指す2021年では恐らく無理だろう。しかし、実現を願って止まない。

クイズ王を下した人工知能ワトソンが医療データの検索支援やヘルプディスク・コールセンターに応用されつつあるように、そのような人工知能は人間がやらなければならない仕事を減らしてくれることだろう。

特に、専門知識が必要で頭を使う必要はあるがクリエイティブでない仕事は、将来、人工知能で一掃しうるだろうし、そうなることを期待する。

そして、クリエイティブさを定義するのは厄介だが、最終的には創造的な仕事を含めたあらゆる仕事を代替できるようになってほしい。既に、人間の脳という機械が宇宙に存在している以上、原理的にはそれを同等の機械をつくることは物理学的に禁止されておらず、おそらくそれを越えたパラメタの機械を作ることも可能だろうし、いつかできてほしい。

人間が有利な領域がどんどん狭くなっていく過程で、「知的」の定義も人間に都合よく書き換えられていくだろうが、最後に残るものを見届けたい。

その時代に旧人類が何をして生きていくかは経済学者なり社会学者に任せるとして、ポスト・ヒューマンないしシンギュラリティが地上に現れる様を私はみたい。人間の領域をはるかに超えた科学、すべての自然科学者を失業させるほどの知の体系を見ることができるのであれば、経済的にいかに不利益を被ろうとも構わない。

ヒッグス粒子をちゃんと理解するにはどのくらい必要?

今回のノーベル物理学賞は大方の人に予想されたように、ヒッグス機構、あるいは特に貢献した人の名前をとってBrout-Englert-Higgs機構(以下BEH機構)に関するものだった。そのうちの一人であるBroutは残念ながら2011年に亡くなってしまったが、50年近い歳月を生き延びたEnglertとHiggsの2人が見事栄冠を勝ち取った。

「ものにはなぜ質量があるのか」という問いに対する重要な解答であり、実験的検証とその理論的な柱であるBEH機構は当然ノーベル賞に値する。

受賞自体に学術上の意味は無く、成人式のように予定された社会的通過儀礼だ。受賞したことで理論の精度が高まるわけではないし、2012年の「発見」も人間が決めた基準にすぎない。数日前と今で理論の輝きに変化はないが、それでも一区切りついたようで実に感慨深い。

標準理論:恐るべき理論の怪物

BEH機構は素粒子標準理論の重要な一角を成している。

三位一体説ではないが、標準理論によると世界は3つの部分によって構成されている。一つ目は、電子やニュートリノといった物質場、2つ目は、光子やウィークボゾンといった「ちから」を司る場、3つ目は、質量を作り出し顔のない素粒子に個性を与えるヒッグス場。

「標準理論ではあれが説明できない。これが説明できない。」みたいな話ばかりが流れているので、いい加減な理論だと思われているかもしれないが、恐ろしいほど森羅万象を説明し尽くす理論であることは強調しておきたい。

例えば電子のg因子は12桁にわたる超精密測定と誤差の範囲で完全に一致する。LHCのような極限領域ですら、あらゆるチャンネルで標準理論からの逸脱は認められない。標準理論の一側面としてマクスウェル方程式のような理工系学生の多くが学ぶ式を導き出すこともできるし、粒子の寿命を計算することも出来る。セシウム137の半減期が30年であることを決めているのも標準理論だ。

標準理論が完成する過程で何十人というノーベル賞学者が生まれ、その精華が一つに濃縮されたのが下の式だ。今回の受賞は、下の二行が実験的に検証されたことでなされた。(式の説明をしだすと2000時間ぐらいかかるので、雰囲気だけを感じ取ってほしい。*1


*2

発見の意義

今回の受賞理由となったBEH機構はそれなりの確度で信頼されており、当然のように教科書の一角を占めてきた。いまさらヒッグス粒子の存在が確認されたところで、それ自体が物理学の世界観を覆すということはないだろう。理論的には何十年も昔の話だ。

MNS行列のexp(iδ)がよく分かっていないだとか細かい部分に着目すればいろいろと未定の部分はあるだろうが、ヒッグス粒子の発見に伴い標準理論は最後の柱が実験的に確固たるものになった。

ヒッグス粒子の質量が126GeVであることや信号の大きさなどは、暗黒物質や階層性問題など標準理論では未解決の問題への数少ない手がかりとなっている。これからヒッグス粒子の特徴を精密に測定していくことで、新たな大発見への扉が開かれるかもしれない。

ところで、ヒッグス粒子の理解ってみんなどうしてるの?

多くのサイエンスコミュニケーターや物理学者がヒッグス粒子やBEH機構について説明しようと頑張っているので、理論の解説は他の人に任せよう。私もいろいろ比喩を考えてみたが、田崎さんがいっているように、ちゃんとした理解はちゃんとしたを勉強する他ない。学問に王道なしだ。

まあ、素人向けの説明だから何でもいいというご意見はあろうが、これは、素人向けとしてもあまりにもひどい。 実際、物理をまったく知らない人には(インチキだとしても)無害なので、まあ気にしなくてもよいのかもしれない。 ただ、学部レベルの物理をちゃんと学んだ人とか、自分で特殊相対性理論を学んでいる人たちにとっては、このインチキ説明は露骨に害があると思う。 つまり、「水飴理論」を真に受けると、
(中略)
本当に理解したいなら、変な比喩を消化しようと苦しむより、学部の数学と物理から出発して場の量子論を学ぶほうがてっとり早いと思う。おそらく数年はかかるだろうけれど、それでも、変な比喩とたわむれるよりはずっと能率的だと思う。 もちろん、「本当に理解したいなら」ということだけどね。 (「本当に理解したいなどとは思わない」というのは、きわめて正しい態度で、普通はそうでしょう。)
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/d/1207.html#08

場の量子論(以下QFT)の常識はずれな振る舞いを、無理やり日常世界の何かに結びつけて喩えると、大抵はどこかに無理がでてくる。ヒッグスに関するほとんどの一般向け解説は、相対性理論はおろかニュートン力学の性質すら満たさず、ちゃんとした物理を学ぼうとする意欲ある人を混乱させる。

ヒッグス粒子ってなあに?』
http://irobutsu.a.la9.jp/movingtext/HiggsHS/index.html
スリードをなるべく避けるヒッグス粒子の解説に関しては、このサイトの説明が素晴らしい。高校物理を学んだ程度の知識で理解することができ、水飴理論のようにちゃんと物理を学ぼうとする人間に害悪をもたらす説明がない。バネで繋がれた系はクライン・ゴルドン場の挙動をよく再現する。

では、ちゃんとQFTを経由する正攻法はどのくらいコストが必要な道のりだろう。

私もちゃんと理解しているかあやしいが、ヒッグス粒子という言葉に出会ってからからおぼろげな輪郭をつかむまでどのような経緯をたどったか参考までに書いてみよう。誰だって最初は理解していなかったはず。

第一印象:「よくわからんいつものパターン」

ヒッグス粒子という言葉を最初に知った時、私は高校の物理と数学に毛が生えた程度の到達度だった。先端物理を一般向けに説明したような本はよく読んでいた。記憶が曖昧だが以下の様な説明だったと思う。今にしてみれば満たしているのはヒッグス粒子ではないし、昨今批判されている水飴理論だ。

素粒子には本来質量がなく、原始、素粒子は光速で運動していた。真空の対称性が壊れて、ヒッグス粒子が宇宙を満たす。粒子はヒッグスに邪魔されて光速以下でしか動けなくなる。

「対称性が破れる」がなんで「ヒッグス粒子がみたされる」になるのか、つながりがさっぱりだった。「CP対称性の破れ」みたいな類似単語は耳にしていたので、「何かよくわからない対称性が破れると、よくわかない理論でよくわからない何かが起きる」といういつものよくわからないパターンかと認識し、どうせ今の学力では理解できないだろうから深入りしなかった。

質量がゼロであり光速であるものが、空間を満たす何かのせいで遅くなる現象については、よく知っているものがあった。水中の光速だ。等速直線運動のイメージとも相性がよい。

エネルギーと速度の関係については疑問が残った。水中の光はエネルギーによらずほぼ一様に減速するが、物体の速度はエネルギーの平方根に比例する。無論、光の屈折率が波長に依存するように、物体のヒッグス中の屈折率は運動エネルギーの平方根に反比例すると仮定すればE~v^2の関係が出せなくもない。今になって思えば、そんな仮定をしたところで絶対系をおいてしまっているのでどうしようもない。下手の考え休むに似たりだ。

最近ヒッグス粒子について見聞きした方の多くとさほど変わらない理解状況だったと思う。

その後はヒッグスと離れて基礎強化

それからは一般的な大学の物理学系の人間と同じようなことをやってきたように思う。BEH機構の理解に必要かもしれない道具だと、線型代数微積分学、電磁気学解析力学、相対論、量子論群論、振動波動論、複素解析、相対論的量子力学、場の量子論素粒子実験基礎 etc etc

この時間が何千時間になるか分からないが、一般的には3年くらいをイメージすればいいかと思う。私は大学に入る前からフライングで勉強していた分のアドバンテージがあったが、進振り天文学科に進んだので、後期課程(3・4年生)ではQFTはおろかただの量子論すら扱わない時間が劇的に増えた。前期課程から局所ゲージ対称性だとかその手の話に触れる機会は常にあったし、一応は後期課程でもQFT等の講義は受けていたが、一番座学が盛んな時期における勉強不足は否めない。

ヒッグス粒子と再会したのは、今回のノーベル賞の受賞理由となったゲージ場の質量起源ではなく、フェルミオンと湯川結合する粒子としてだった。「mをyに書き換えただけじゃねーか。」という第一印象。院進学以降は、素粒子物理の理解が不可欠なテーマになったので、日常的に触れるようになった。

完走に必要なのは知力ではなく、意欲だろう。不変デルタだのBRSTだのといった数式の森を抜けるには、理解したいというモチベーションが重要だった。新しい理論を生み出すならともかく、十分に整備された既存の体系を学ぶだけならセンスは必要ない。どれほど難解に見える物理であっても、科学の形で記述されている以上、提示された実験事実とロジックを丁寧に積み上げていけば、いつかは理解できるようになる。何年後になるかは当人次第だが

大雑把な概算イメージ

高校物理と高校数学をマスターするのに必要な時間を500~1000時間として、物理学の網羅的な理解ではなくヒッグスだけを目標にするなら、なんちゃって理解を得るまでに3000時間くらいあれば大丈夫だろうというイメージを抱いている。参考書もせいぜい数十冊といったところだろう。ガチでやるなら10000時間とかそれ以上の時間が必要になるだろうが、そんなのは素論の人間にやらせておけばいい。効率よくやればもっと早くなるだろうし、理工系の大学に入学した人間なら、もう二合目ないし三合目までは来たと思ってよいのでは。

質量というダイナミクス

それにしても質量というのは面白い現象だ。中学生でも理解できる概念に見えて、勉強が進むとまったく新しい様相を見せてくれる。

どれだけミクロの世界をみるかで変化する素粒子の質量

もしかすると多くの人は質量は個々の素粒子に対して不変で固有の値を持っていると思っているかもしれない。しかし、SUSYの議論などで顕著だが、電磁気力の結合定数(1/137)が見るスケールと共に変わってくように、素粒子の質量も見るスケールによって違った値となる。例えば極微の世界では同じ質量を持っている粒子が、片方は強い力*3を感じることができたばかりに、われわれの世界では異なる質量の素粒子として観測されることがある。

質量のくりこみ

縦軸は各々の素粒子の質量、横軸はスケール(右に行くほどミクロの世界を見ている)。
出典:A Supersymmetry Primer
http://arxiv.org/abs/hepph/9709356

電子ニュートリノの重さは?

また、一般にフレーバーの固有状態と質量の固有状態はズレている。素粒子の世界では、ヘリウム原子の重さは4u、水素原子の重さは1uといったように一対一対応しているわけではない。例えばニュートリノは、フレーバーが電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノの三種類あるのに対応して、質量の固有状態もν1からν3までの3種類ある。電子ニュートリノは、質量が異なる3つの質量固有状態の重ねあわせ状態として記述される。

|\nu_e> = \alpha |\nu_1>+\beta |\nu_2>+\gamma |\nu_3>

逆に、ある質量固有状態を選ぶと、電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノの重ねあわせ状態になっている。

|\nu_1 >= a |\nu_e>+b |\nu_{\mu}>+c |\nu_{\tau}>

このことは「ニュートリノ振動」とよばれる現象の重要部を占めているけど、話が発散するのでこの辺にしておこう。

最後に

以上の2つは、私が学部時代に学んだことのなかで特に新鮮に感じられたものの集合に属する。このエントリを読んで「質量」というものに興味をもち、本腰を入れて勉強をはじめる方が0.1%でもいてくれれば、非常に嬉しい。

*1:もうちょっと中身を顕に展開された式に触れたい方はこの辺を参考に http://einstein-schrodinger.com/Standard_Model.pdf

*2:mψψみたいなmではじまる項がないことに気づかれたかたもいるかもしれない。ゲージ対称性により、ラグランジアンに勝手に質量項を加える事は禁止されている。代わりに3行目にヒッグス場と物質場の湯川結合が存在している。

*3:強い力:自然界にある4つの力のうちの一つ

陽子や中性子を素粒子として扱う業界ってどこにあるの?

最近知ったことなのだが,どうも高校物理の教科書には原子核より下のすべての構造を「素粒子」としている記述があるようで困惑している。

例えば第一学習社の教科書には以下の様な記述がある。

電子,陽子,中性子などの粒子は,物質を構成する最小単位として,素粒子として呼ばれている。
陽子や中性子核子)はクォークからなるが,素粒子と呼ばれることが多い。

第一学習社

また,啓文社啓林館の記述ではこうだ。

原子核より下の階層の粒子(核子クォークなど)を素粒子と呼ぶ。

啓文社啓林館:

無論,「内部構造をもたずこれ以上分解できない究極の構成要素」としている教科書もある。この場合,クォークレプトンゲージ粒子ヒッグス粒子のみが現在確認されている素粒子となる。

どうも教科書によって素粒子の定義がばらついているようだ。

研究の現場での定義

私が知る限り,陽子や中性子素粒子と呼ばれていたのは何十年も前の話だ。より基本的な粒子であるクォークが発見されたことで素粒子の座から転落した。現在も核子素粒子として扱っている業界は知らない。まだ数人の物理研究者によるサンプルしかないが,概ねハドロン素粒子とする定義に対して違和感を覚える反応で,「原子核より下の構造を素粒子とよぶ」とした人はない。


「いろもの物理学者」こと前野さんの反応も以下のようで

彼の見つけてきた資料では次のように書かれているようだが,現時点で,後者の定義で使っている業界は発見していない。

高校学校物理における「素粒子」の取り扱いに関する変遷
素粒子の定義としては,分割できない,内部構造を持たない究極の素粒子とする定義,自然の階層性に従い原子核の次の段階に来る粒子とする定義,がある。

拙速に「教科書の記述はおかしい」と主張することは避けたいので,誰かハドロン素粒子として扱う業界を知っていたら教えてくれるとたいへん嬉しい。