「萎え」が大量供給によって全面安

最近、FX投資関係でよく聞くけど「高い授業料になったが、勉強になった。」というのは無意味だが便利な言葉だ。

多くの事例ではただ痛い思いをして手が重くなっただけで特に後の運用業績には貢献しない。このことを肝に銘じて手堅くとは聞くが、新しい話が出るまで投資を止めてしまうかより躊躇するようになるだけで、別に新しい運用技術を獲得したわけではない。商いが小さくなることで破産リスクが遠くなったという側面はあるが、「自分がいかに目隠しをしたまま崖の上で踊っているかを把握する」というのは授業料とは関係無しに取得可能な情報だ。

だが、「勉強になった」というときに知覚され要望されているのは、「痛かったが少なくとも何かは得るものがあった」という"実感"であって、それがコスト対比でペイするに値するものか、それがコスト以上の利益をもたらすかという"実態"は曖昧なままだ。

"安心"のみがリアルで"安全"はフィクションであるのと同様、我々には"実感"のみが可観測なリアルで"実態"は不可知なフィクション。

為替にしろ電磁波にしろ環境問題にしろ、一般に対象の"安全性"を評価するのは専門家でも非常に難しい。様々な因子のリスク評価を適当な文献からでっち上げようとも、過去の経験によるバイアスがかかったり独断にならないように多くの人間で討議検討しようとも、あるいは様々な専門的な知見や過去の事例からグチグチ考えようとも、そう自明に推定できる代物ではない。私のような素人が安全性を評価しようとも、せいぜい雑誌に載った単一材料だけに煽られてわーわー騒ぐ程度が関の山。

一方、"安心"か"不安"かの判断はコンマ5秒でできる上に、常に正しい。

実際の安全性がどうであろうと、安全性の真値は多くの人間にとって不可観測量であり、知覚出来ない以上存在しないのと同じ。数値と言う強力な"実態"が目の前に提示されている状況ですら、利益を得ていると言う"実感"さえあればアムサ○ボーグは生きていけるのだ。

というわけでこの1週間は無駄ではなかったと"実感"することにする。単位時間辺りのコード生産率など考えてはいけない。自分が多大な時間を投じて構築した物理計算メソッドが既に他の神々によって用意されていたときに一々脱力感を感じていたらきりがない。