蛮勇:安易な相対主義と安易な科学主義のはざまで

たまにはこんなことも書いてみるよ。

「人は見たくないものは見ない傾向にある」というフレーズは人口に膾炙しているが、これは何が原典だろう、少し気になった。『ローマ人の物語』ではカエサルの言葉として何度か引用されていたが漢詩文でもにたような表現をみた記憶があるので、自然多発的でより古い起源をもつ言葉かもしれない。

思えば、いくつもの見たくないものを見ないで過ごしてきた。

例えば、真性ゆとりの実在をかなり懐疑的に扱ってきた。「私は政治的に中立な記述になるよう目指している」と、自らの立場に"無自覚"であるのみならず、人がイデオロギーから自由になれるとネタではなく真顔で発言できるような、"歴史を勉強した事のない人間"があの場に存在できることを認知保留して無意識に誇張や脚色を疑い、あるいは安易に白痴/無教養の烙印を押して存在を人間的関心の外に追いやってしまっていた。

これは反省すべきだ。どのように受け止めるにせよ彼らは実在し、また安直にゆとり認定を乱発する態度は上から目線の生理的拒絶でしかない。彼らの多くは教育や知性の点で劣後した存在ではなく我々と同等以上に万象を考える思考力もある。要求されてきたスキルや文化が違うだけだ。実効性に乏しくこの世と乖離したお花畑の団体職員や、空気しか読めず刺激に対する脊髄反射だけで動くカオナシ集団と同レベルな方々は論外だし、「自らのイデオロギーに対して自覚的でない。」と70年代に保守陣営に対してなされた批判がそのまま反転した状況に目眩を覚えたが、もはやイデオロギー論の様々なスペクトルを知らずに発言する事が学生として恥ずかしい水準とされる時代ではない。その代わりに、新たに要請される要素も増えた。


(つづく)かも