数学や物理でつまずく前夜に起きたこと(前編)

「私は理系科目を挫折することが神によって予定されているから、勉強しないのだ。」

まだ、私が小さかった頃である。高校レベルの自然科学や数学すら勉強する前の話だ。私は理系科目というものに一抹の不安を抱えていた。

いちおう、NHKスペシャルや科学雑誌の毒気に時々はあてられたりして興味が無かったわけではないけど、本を買って勉強するのは躊躇していた。

というのも、周囲の先達はみんな口を揃えて「ムズカシイ」というのだ。担任の先生曰く、物理のテスト20点だった。同じ団地に住んでいた上級生曰く、全然わからん。近所の大人曰く、数式を見ていると頭が痛くなってくる。

あの年齢で数学を勉強しようという強い意志はなかったし、まわりのムズカシイ大合唱に囲まれていたせいもあり、敷居の高い雰囲気だけが先行していた。興味はあるけどとっつきにくい。そして手を出せば普遍的に挫折する物だ。そういうイメージが小さな私にへばりついていた。そういう児童って結構いると思う。興味がすこしあっても、周囲の空気が自然科学の勉強を後押ししてくれる感じではないというのは私だけではないと思う。

しかし、周囲の「そんなものに手を出すなんて、君、挫折するよ空気」とは裏腹に、まったく逆の信念、「科学である以上理解できない筈がない」という信仰も同居していた。科学は科学である以上、個人の立場や経験・価値観によらず、万人が検証し確認できる体系でなければならない。ならば、万人のひとりである私が理解できない筈がないではないか。

物理や数学が科学である以上、私は絶対に習得できる。「悟り」や「感性」、「心霊」のような、”選ばれた人達”だけが共有し理解できるローカルで胡乱な概念ではない。

お恥ずかしながら、その頃の科学観はそんな感じだった。無数の人間に検証されてきた普遍ともいえる最低限の共通フレーム、認識のBIOSのようなもの。小さい頃の私は漠とそんなふうに考えていた。

かくて、「過去の無数の実例に示されるとおり、神に予定されているかのように自然に挫折する。そもそも理系科目とはヒトを挫折させて、人間の尊厳に屈辱を与えるためにあるのだ。」という不安と、「科学は万人に開かれ宇宙人だろうが人間だろうが誰もが共通に理解できるからこそ科学なのである。およそ、理解できない者は理性をもった存在ではない。」という信仰の、2つの極値がまざりあったまま、その日を迎える。

その日「ma=f」を知った。