運動方程式:ma=Fか、F=maか

\frac{dp_i}{dt}=F_i vs F_i=\frac{dp_i}{dt} 

すこし古い話題だけど、運動方程式を「ma=F」と書くか「F=ma」と書くかについて。

「原因と結果の関係を考えると、どう考えてもma=Fだ。」という一見もっともらしい説明はむかし口酸っぱくいわれたものだ。既にma=Fの方が完全に肉体の一部になっている。当時から今に至るまで「本当にそうなの?」「日本の中等教育業界で勝手に広まった俗説じゃないの?」という疑念は消えていないが、特に意識せずに書くと「ma=F」になってしまうようで、なかなか恐ろしい教育効果だ。

普段、運動方程式の解釈なんて考える事はまずないが、凡百なりにすこしだけ振り返ってみる。

両派の支持率

まずma=F派とF=ma派の勢力分布はどうなっているのだろう。どちらか一方が、国や時代を超えて一般的に用いられているのだろうか。*1一部の人間がma=Fの方の正統性を主張していても、世界的に受け入れられていないのであれば意味はない。

教師によってはF=maで書くと減点する人もいるようだけど、どうも「四角形の面積は『縦x横』が正しくて、『横x縦』はけしからん。」「合計金額は「値段x個数」が正しくて「個数x値段」は×だ。」に似たローカル文化的な香りがする。

実際の運用としてはどちらの形式も普通に使われている。少なくともGoogleで検索すると「F=ma」の方が優勢だ。変な単語を引っ掛けないように引用符でフレーズ化したり、運動方程式でアンド検索してもF=maが強い。

じゃあ、研究の場ではどうなっているかというと、人文系の論文で「あいうえお」と書き取りテストしないように、ニュートン力学運動方程式を論文で普段お目にかかる機会はまず無い。

「では、力学の教科書では?」と思い出す限りではma=Fが優勢だった気がする。ただ、F=maも普通に使われていたような。少なくとも、どっちも見たことはある。

用例という観点ではどちらもそれなりに使われている。

定義式だよ論争

F=maは因果律説では分が悪いので、運動の定義式として主張されることがある。

  1. F=maは「力の定義式」である
  2. ma=Fは「質量の定義式」である

特に「力の定義式」としての見方は「F=ma」だよ派の重要拠点だ。「力とは質量に加速度を掛けた量のことである。」「力とは運動量の時間変化を表す量として定義される。」といった主張だ。

ただし、対抗勢力として「ma=F」を質量の定義式としてみる立場も存在する。「物体には力と加速度の間に比例関係を与えるような、運動に依らない固有量mが存在する。」という捉え方だ。

合力的な意味でF=maは辛い。例えば、下の式で左辺が右辺によって定義されていると主張するのはかなり厳しいものがあるようにみえる。
-\frac{GMm\vec{r}}{r^3}+q\vec{E}=m\frac{d\vec{v}}{dt}

しかし、左辺の複雑なベクトル量を私たちはどうやって知るか考えてみる。「実際の力がどのような形をしているのか」は天から勝手に降ってきたりしない。「力は力学理論の外から経験的事実として与えられ、それによって運動が決定される」とは言われるが、その"経験的事実"は何によって観測され確立したのだろう。他の力との釣り合いや校正といった実験の集積においてだ。静電引力の強さは例えばバネばかりによって計られる。ではバネばかりの力の強さは何によって規定されるのだろう。新しい力を古い力で規定していくチェーンが最後にたどり着く量的根拠は、テスト粒子などによる物体の運動である。力は運動という存在基盤から切り離されては生きていけない。

力をポテンシャルという未知の一価関数Vの微分量とみなし、その微分量Fが粒子運動よって計測(基盤付けられる)されると解釈できる。
F\equiv -\frac{\partial V}{\partial \vec{r}}=-\frac{GMm\vec{r}}{r^3}+q\vec{E}=m\frac{d\vec{v}}{dt}

F(=Σ f=-△Φ)=ma : 運動する物体が知覚できるのはただ一つの合力あるいはポテンシャルだけだ。"個別のポテンシャル"なり"個別の力"は可観測量ではない。ある環境(他の物体の配置など)に対して、"複数の個別の力が物体に加わっているという解釈"は現象や観測量の外にある。そしてその(合)力なりポテンシャルを観測する手段はつまるところ物体の運動である。


 力学的「力」は説明無しに導入できるほどお気楽な存在ではない。我々には触覚/圧覚があり「力」というものを、理論記述の為に導入された仮想的な作業量というよりは、自然に存在する自明な存在だと感じがちである。しかし、押されたときに感じるグググっとした感覚は皮膚の変形に対する神経の応答である。バネもそうだ。触覚が力として知覚するのは「力そのもの」ではなく巨視的物体の変形に過ぎない。

定義式としての運動方程式について

ニュートン運動方程式を定義式として扱うときに厄介なのは、それが「力」と「質量」という2つの未定義量を含んでいる点だ。加速度aはa=dv/dtとして外から定義できる。しかし、質量と力は共に運動方程式を定義の拠り所としている。力は質量と加速度によって規定され、質量は力と加速度によって規定される。1つの式で2つの独立な量を定義するのは無茶というものだ。これは力と質量をポテンシャルや運動量に置き換えても同じ。

しかし質量と力に共通の親がいて、例えばある関数L、ここでは適当にラグランジュ関数という名前をつけよう、の一部として表現できるとしたらどうだろう。Lは力学系の情報を全てもっていて、運動方程式がLを述語づけるだけの存在だとしたら。

因果論だよ論

ma=F : 「運動量の変化は力によって起る」

これは、まあいいや。

慣性力 ma

すこし本筋から外れるが、運動方程式はmaを移項することで慣性力との釣り合いとして処理することもできる。別に、慣性系で物理を解かなければいけない決まりは無い。混乱が生じないのであればそうするといい。
 \vec{F}-m\vec{a}=\vec{0}

このF-ma=0という書き方はダランベール的だ。この形は作用関数の変分原理から導かれる形に酷似している。というか、まんま同じ形である。「力学系はF-maが0になるよう運動する」

ところで、釣り合いは0=Σfと書くべしという主張が一部である。あくまでも運動方程式で、左辺の運動項が0なんだとか。

  1. あくまでも、ma=F派 : ma=0=F-mA -> 0=F-ma
  2. 力の釣り合いだよ派 : Σf=F-mA=0 -> F-ma=0

F-ma=0 : 変分的な意味で

ma=Fのレベルで争っても埒があかないので、すこし上位互換を考えてみる。一般に系の内容は最小作用原理によって記述される。

0=\delta S = \int dt \left( \delta q_i \frac{\partial \mathcal{L}}{\partial q_i} +\delta \dot{q_i} \frac{\partial \mathcal{L}}{\partial \dot{q_i}}\right) =  \int dt \delta q_i \left( \frac{\partial \mathcal{L}}{\partial q_i} -\frac{d}{dt} \frac{\partial \mathcal{L}}{\partial \dot{q_i}} \right)= \int dt \delta q_i \left( F_i -\frac{dp_i}{dt} \right)
F_i\equiv \frac{\partial \mathcal{L}}{\partial q_i}p_i\equiv \frac{\partial \mathcal{L}}{\partial \dot{q_i}

作用関数Sからラグランジュ方程式(運動方程式)を導出することを考えた場合、自然な導出ではF-ma=0だ。ただ、一般化座標より一般化速度による摂動を先に書いたり、移項しまくればどうとでも変形できる。このままでは気持ち悪いので全体にマイナスをかけて「ma-F=0」の形で使うことも多い。とりあえず運動項は頭に置きたい。ma=Fにならって以下のように書くこともあるだろう。

 \frac{d}{dt} \frac{\partial \mathcal{L}}{\partial \dot{q_i}} =\frac{\partial \mathcal{L}}{\partial q_i}

ラグラジアン的には項の位置にそれほど強い縛りは無いように感じられる。ニュートン的な視野での力と運動項の境界は互いに混ざり合い、境界は流動的になる。

 m\vec{a}-q\left(\vec{E}+\vec{v}\times\vec{B}\right)= m\vec{g}-k\nabla p
みたいに電磁気力を運動項に書きたくなるよね、ゲージ変換的な意味で。

ma=F : とはいえ、ハミルトニアンは大事

量子論への接続を視野にいれるならハミルトニアンを忘れてはならない*2。古典的にも、位相空間上の発展方程式を与えることは力学における重要な仕事である。つまりは下の式を無視することは不可能だ。

\dot{p_i}=-\frac{\partial H}{\partial q_i}\dot{q_i}=\frac{\partial H}{\partial p_i}

これを右辺と左辺をひっくり返して書くのは(追記7/25:よい意味で *3 )数理構造原理主義か変態だろう。(p,q)の時間発展を求める式であり、「ma=F」の形をしている。

もっとも、より一般的な形として、正準変換して単なる運動量や座標でない適当な変数で記述しまえば、「ma=F」の形か「F=ma」の形かなんて議論は無意味に崩れ去る訳るように見える。

グダグダになってきたのでこの辺で。

*1:「右に原因、左に結果を書く」というのは慣習であり物理法則自体ではない。言語構造や記述する向きのことなるアラビア語圏が先に運動方程式にたどり着いていたら逆になっていたかもしれない。

*2:ハミルトニアンは大事だが、もちろんQFTを扱わなくともラグランジアンも大事。

*3:ブ米を受けて追記:一般的かどうかはさておき、時間微分を右に書く形式が非正当あるいは不適当である主張と受け取られることを避けるため。