質量とは何か?

スノーとかいう御仁は、「『質量とは何か』という問は『君は読み書きができるか』と聞いているのと同じレベルの問だが、いわゆる人文系の知識人で答えられる人間はほとんどいない」と文理の間に横たわる溝を指摘したそうだ。しかし、何年か物理を勉強してきたわたしも私も未だに「質量」とは何かなんて聞かれてもよくわからない。

「質量」という概念の科学史的なフローはすでに多くの研究があると思われるので、とりあえず現在の教育システム上の学習フローを追っていくことで、現代理系人(特に研究者)がイメージする質量概念の外観を探ってみようと思う。

質量概念は、経験上の質量イメージをコアに、学習プロセスの各段階で獲得したイメージがレイヤー状に積み重なっていく。通常の課程では『高校理科的質量->相対論的質量->量子場的質量』という構成になる。

理系知識人は読書量が非常に少ない人も多く、文系知識人にとっては“バタつきパン” にあたるような必須教養ともいえる、小説や詩を殆んど読んでいなかったりする。文系知識人は自尊心の強さも加勢して、これを理由に理系知識人を過度に侮り、軽蔑してしまう。彼ら文系知識人は、文学など古くから研究されてきた伝統的な学問分野こそが、文化の中心だと思っているのである。曰く、「人間の心の最も美しく、かつ驚くべきものへの探求に対して(理系知識人は)つんぼであるばかりか、自分たちが失っているものについて気がついていない」。
文科系の必須教養を読んでいないといって、科学者を無学で教養の無い人々とみなす一方で、文系知識人は「熱力学第二法則を説明せよ」と求められても到底答えることはできないし、また、そう求めること自体が馬鹿げているといった態度をとる。しかし熱力学第二法則を知っているかどうか、と問うことは、君はシェイクスピアを読んだことがあるかと尋ねるのと、実は同じレベルなのである。また、「質量とは何か」という問いは「君は読み書きができますか」と聞くのと同じレベルであるといえるのだが、この問いに完璧な答を出せる人は数えるほどしかいなかった(もちろん先の熱力学の問いに比べては多かったのだが)。スノーはこの状態を評し、「西欧の最も素晴らしい知識人は、科学については新石器時代並みの知識しかない」と記している。
このような文理隔絶は世界全体で進行中であり、この状況は日本の学校システムにも投影されているといえよう。つまり、高校教育を例にとると、ちょっとしたコース選択いかんで、世界を知る上で大原則となるような知識さえ、耳にもしたことがない状況のまま卒業することになる。こういった事態は私立校でより顕著だとも言える。選別された流れの中で、学ばずに過ぎてしまった分野を改めて学べるのは大学の教養課程、ここ東大でいえば駒場時代が最後のチャンスなのである。
「2つの文化と科学革命」のなかのエピソードの1つに、1956年のコロンビア大学のヤンとリーによる実験にまつわる話があるが、この実験のエピソードは文理隔絶と現代におけるパラダイムの揺らぎの両方面で示唆的なものといえるだろう。
http://www.sakamura-lab.org/tachibana/first/02minj/cpsnow.html