メモ:日本でおきた外国要人の暗殺事案から4件
政情の不安定な国や地域に要人を派遣する際に、現地における暗殺や傷害というカントリーリスクが懸念されるケースが存在する。中には「あんなところに総理を送ったら拉致されるのではないか。暴徒に教われるのではないか。」といった相手国に対するネガティブなイメージ不安が先行したものも多い。諸国の事例を考える前に、日本で外国要人が襲われたケースはどのようなものがあるかをいくつかメモしておく。いずれもただの傷害事件や殺人事件に留まらず各国情勢や社会に少なくない影響を与えたものばかりだ。
大津事件
1891年、日本訪問中のロシア皇太子ニコライを警備に当たっていた津田三蔵巡査が突然斬りつけた事件だ。ニコライは一命を取り留めたものの、ロシア脅威論が高まる中での事件であり、ロシアからの報復や賠償金/領土割譲要求などを恐れて日本中にパニックが広がった。
政府は日露関係の緊張を考慮して被告を死刑にするように働きかけたが、大審院(現最高裁)は法に従い無期懲役の判決を下した。司法の独立に関するエピソードとして有名なのでよく知られている。
下関講和会議における暴漢襲撃
大津事件と違いかなりマイナー(だと思いたい)。無教養ゆえか、帝政終焉と共和制への道筋を扱った中国ドラマ「走向共和」*1噂とテロップを聞くまでこの事件を知らなかった。
日清戦争の講和会議は列強各国や当事国の思惑が複雑に絡んで一進一退の交渉が続いており、日本は有利な戦局を背景に強硬な態度で臨んでいた。休戦協定までの時間稼ぎをしながら占領地の拡大と既成事実化をすすめ、北京を射程圏に収めつつあることも理由に厳しい要求を突きつけていた。
そんななか清朝側の代表である李鴻章が自由党議員の息子でニート(?)の小山豊太郎(小山六之助)に銃撃される事件が起る。この事件は世界中に報道され、主導権は一気に清朝側へと揺り戻すこととなる。これを口実とした列強による仲介や干渉のツタがするすると絡み始め、大津事件の悪夢が再現されたことに動揺する政府は講和条件を緩め大幅な譲歩を行い早期決着に至った。
この事件がなければ、日清戦争は泥沼の北京戦に突入し落としどころを失っていたのか、それともより大きな外地(それはより大きな財政支出も意味する)が形成される事になったのか、いろいろなIFができそうだ。
ライシャワー事件
1964年、駐日米国大使のライシャワーが統合失調症患者に刺された事件。治療の際に大量の輸血を受けるが、それが元で肝炎を患い「売血」が問題視されるようになり、現在の献血制度に至る。また、精神衛生法のあり方が問題とされ、措置入院が強化されるなどの法改正につながった。