別解禁止:×つけられることがそれほど恐ろしいのか

高校数学は数学ではないが故に。
現在の教育システムがどのような大綱によって構成されているかよく知らないが、何らかのレギュレーションなるものは存在する。

数学の定期試験で別解がバツにされるようになった理由
飲み仲間のひとりに、数学の個人塾をやっている高校の先輩がいますにゃ。この間、ひさしぶりにこの先輩と飲んだおりに、ちょっとびっくりする話を聞きましたにゃ。
「高校の数学の試験で、授業で教えていない解答をすると×にするようになった」
「はあ!? 別解はご法度ということですかにゃ?」
「そうだ。中学ではあったんだけど、高校でもそうなった」
「高校って、もしかしてA高(僕らの母校で、いわゆる進学校)でそうなんですかにゃ!!??」
「そうなんだよ。まあ受験生になれば何でもアリになるようだが、1〜2年の定期テストでは別解が認められなくなった」
「工工工工工工工工工エエエエエエエエェェェェェェェェェェェェェ(゚Д゚;│」
「俺だって信じられねえよ」

受験産業中等教育レベルでは「別解禁止」「指導要領範囲外禁止」「授業でやっていない範囲禁止」という類いのレギュレーションはよく聞くよね。数学の理念はともかく、「ロピタルの定理」とか、標準的な解法からの逸脱は失点のリスクを招く。定期テストならともかく入試の採点官が裏技的な解法を認めない場合、本人の将来を左右するほどの事態にはなるだろう。

受験指導者としてはそのようなリスクを冒させるわけにはいかない。ある程度の採点レギュレーションを引いて圧力を加えることで標準的な解法に平均化させてやる必要がある。受験者は出題者に期待された解答を出力するだけでなく、リスクを生むだけのエキセントリックな解法も慎まなければならない。「黙ってこの解法を写経しろ」、と。

大学の教授陣の話をいくつか聞く限りでは数学科の中の人は高校教育の状況など知らないし、外から見ていると「何でそんなに細かいところまで気にするのだろうね」、というような些細なことが受験業界では語られているようだけど、採点官の評価基準を過剰に気にする人たちは理解できる。ほんの少しでもリスクがあればそれを避けたい。

受験生や指導者は採点者に直接求められなくとも、「相手からこのような解答求められている」と常に意識し続け、解答レギュレーションなる見えない規範に自然と拘束される。「みんな無個性な解答ばかりで、がむしゃらに当たってみた解答が少ない。かといって、問題をひねればすぐ捨てられる」とどこかの老教官がぼやいていた。

受験のリスク管理という文脈で「別解禁止」は支持されるが、"教育"という側面からも支持される状況が発生しうる。

高校数学は少なくない人たちにとって数学への入り口となるが、数学自体ではない。力のみが正義であり変態の社交場であるところの数学とは違う。別解を見つけたもののみが評価され、過去の標準的な視点を積極的に侵略するすばらしき無法地帯ではなく、"教育"であり社会的道義がまかり通る「高校数学」でなら多少のレギュレーションが自然発生することは容易に予想できる。その社会的道義や教育的配慮なるものがどうなるにせよ、教育方針というものは無法地帯ではなく何らかの規制を掛ける方向に作用する。

受験対応、あるいは教育的な配慮からレギュレーションは存在して自然。

とはいえ戦略としては

私はというと、それなりに無視した。

第1に、レギュレーションを無視することで得られるアドバンテージがあまりにも大きい。二次曲線の問題は普通にY=1/Xになる座標系に線形変換して瞬殺だったし、級数展開もランダウ記号もロピタルも使いまくったし、関数系をベクトルと見なして解いたこともある。デルタスター変換も、マクスウェル方程式微積物理も自重しなかった。積分してエネルギーがでると分かっていながら迷うことは無い。ごちゃごちゃ考えなくとも多重積分して2分で答えが出るなら、リスクを冒してでもさっさと解いて次の問題に移行するべきという指針だ。計算が遅い私にとって、ショートカットを連発して20分30分の時間を稼ぐことは大きな意味あった。

第2に、リスクは大きくないと判断した。評価はされるだろうと勝手に期待していた。模試はバイトが模範解答とマッチングしながら大量処理しているからある程度は弾くだろう。模試などで減点の経験は何度かあるが、時間短縮のメリットを打ち消すには至らない。定期テストは教官陣が神だしコミュニケーションも上手くいっているので普通に認められるだろう。大学入試については、何人もの数学者が合議しながら入念にチェックしている筈だ。「この現代的な解法を高校数学的な標準解法と比べて入学の価値がないものと判断するなら、日本は沈没するしかないだろう。」という信頼というか、大学に対する過剰な過剰な期待があった。

第3に、「高校数学」を知らない。高校数学の範囲と構造に順応するのが辛いし、モチベーションが続かない。

数学とは個々の要素が複雑に絡み合った一体としての何かだ。ここまでが指導要領範囲という線が引かれている訳ではないし、カリキュラムに沿った分類が行われていた訳ではない。代数的手法と解析的手法は単に同じものを別の視点で見ているに過ぎない。整数論幾何学と無縁ではないし、微積分と行列はお互いを助け合う。パズルゲームでもそうだけど、何らかの問題を解いているときはあらゆる手段や視点が同時並行的に展開されるのが普通だ。例えば、漸化式を解いているときにnで微分したらどうなるだろうという発想がまったく意識の外にある訳ではない。

境界の無い数学を、いちいち高校数学の単元に合わせてラベリングするのは効果のわりに莫大なコストがかかる。確率論はIAだから範囲外なんて、受験生に言われても「知らんがな」と。概ね高校時代に高校数学を勉強した訳でもないので、数学というと「塾や学校の授業で習った事」ではなく「自分で数学書を読んで開拓した事」で構成された存在だ。そもそも高校の数学の授業が独自カリキュラムで数学IAとIIBの区別がつかない私には、いまさら高校数学的レギュレーションに順応するのは課題が多い。視点や思考パーティションが不自然になるし、頭の中で考えていることをいちいち翻訳しながら自意識と乖離した解答を書かなければいけないとしたらフランス語で会話するかのごとく速度も落ちるだろう。

この経路積分のようにあらゆる視点と可能性を保持しながら押し寄せる混成思考こそが、あらゆる障壁と未知の問題を貫通して、勝利の沃野に到達する自己の強みであり切札だ。他者の方針は知らないが、そう簡単にレギュレーションで縛ったり分割するのはリスクに繋がる。受験戦士的な順応をすることで拾える点もあるが、×にされるリスクを犯しても、順応しない方がメリットが大きいと判断した。

その人の趣味に依るだろうけど、その学校が別解禁止であろうとも、目先のリスクに囚われずに、あえて別解を開拓し続けることを続けた方が、後々有利になるだろう。他の単元と関連づけられる事で学習能率も上がるし、標準から少々逸脱したところで突破不能になるレベルの数学入試などこの国には存在しない。