ヒッグス粒子をちゃんと理解するにはどのくらい必要?

今回のノーベル物理学賞は大方の人に予想されたように、ヒッグス機構、あるいは特に貢献した人の名前をとってBrout-Englert-Higgs機構(以下BEH機構)に関するものだった。そのうちの一人であるBroutは残念ながら2011年に亡くなってしまったが、50年近い歳月を生き延びたEnglertとHiggsの2人が見事栄冠を勝ち取った。

「ものにはなぜ質量があるのか」という問いに対する重要な解答であり、実験的検証とその理論的な柱であるBEH機構は当然ノーベル賞に値する。

受賞自体に学術上の意味は無く、成人式のように予定された社会的通過儀礼だ。受賞したことで理論の精度が高まるわけではないし、2012年の「発見」も人間が決めた基準にすぎない。数日前と今で理論の輝きに変化はないが、それでも一区切りついたようで実に感慨深い。

標準理論:恐るべき理論の怪物

BEH機構は素粒子標準理論の重要な一角を成している。

三位一体説ではないが、標準理論によると世界は3つの部分によって構成されている。一つ目は、電子やニュートリノといった物質場、2つ目は、光子やウィークボゾンといった「ちから」を司る場、3つ目は、質量を作り出し顔のない素粒子に個性を与えるヒッグス場。

「標準理論ではあれが説明できない。これが説明できない。」みたいな話ばかりが流れているので、いい加減な理論だと思われているかもしれないが、恐ろしいほど森羅万象を説明し尽くす理論であることは強調しておきたい。

例えば電子のg因子は12桁にわたる超精密測定と誤差の範囲で完全に一致する。LHCのような極限領域ですら、あらゆるチャンネルで標準理論からの逸脱は認められない。標準理論の一側面としてマクスウェル方程式のような理工系学生の多くが学ぶ式を導き出すこともできるし、粒子の寿命を計算することも出来る。セシウム137の半減期が30年であることを決めているのも標準理論だ。

標準理論が完成する過程で何十人というノーベル賞学者が生まれ、その精華が一つに濃縮されたのが下の式だ。今回の受賞は、下の二行が実験的に検証されたことでなされた。(式の説明をしだすと2000時間ぐらいかかるので、雰囲気だけを感じ取ってほしい。*1


*2

発見の意義

今回の受賞理由となったBEH機構はそれなりの確度で信頼されており、当然のように教科書の一角を占めてきた。いまさらヒッグス粒子の存在が確認されたところで、それ自体が物理学の世界観を覆すということはないだろう。理論的には何十年も昔の話だ。

MNS行列のexp(iδ)がよく分かっていないだとか細かい部分に着目すればいろいろと未定の部分はあるだろうが、ヒッグス粒子の発見に伴い標準理論は最後の柱が実験的に確固たるものになった。

ヒッグス粒子の質量が126GeVであることや信号の大きさなどは、暗黒物質や階層性問題など標準理論では未解決の問題への数少ない手がかりとなっている。これからヒッグス粒子の特徴を精密に測定していくことで、新たな大発見への扉が開かれるかもしれない。

ところで、ヒッグス粒子の理解ってみんなどうしてるの?

多くのサイエンスコミュニケーターや物理学者がヒッグス粒子やBEH機構について説明しようと頑張っているので、理論の解説は他の人に任せよう。私もいろいろ比喩を考えてみたが、田崎さんがいっているように、ちゃんとした理解はちゃんとしたを勉強する他ない。学問に王道なしだ。

まあ、素人向けの説明だから何でもいいというご意見はあろうが、これは、素人向けとしてもあまりにもひどい。 実際、物理をまったく知らない人には(インチキだとしても)無害なので、まあ気にしなくてもよいのかもしれない。 ただ、学部レベルの物理をちゃんと学んだ人とか、自分で特殊相対性理論を学んでいる人たちにとっては、このインチキ説明は露骨に害があると思う。 つまり、「水飴理論」を真に受けると、
(中略)
本当に理解したいなら、変な比喩を消化しようと苦しむより、学部の数学と物理から出発して場の量子論を学ぶほうがてっとり早いと思う。おそらく数年はかかるだろうけれど、それでも、変な比喩とたわむれるよりはずっと能率的だと思う。 もちろん、「本当に理解したいなら」ということだけどね。 (「本当に理解したいなどとは思わない」というのは、きわめて正しい態度で、普通はそうでしょう。)
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/d/1207.html#08

場の量子論(以下QFT)の常識はずれな振る舞いを、無理やり日常世界の何かに結びつけて喩えると、大抵はどこかに無理がでてくる。ヒッグスに関するほとんどの一般向け解説は、相対性理論はおろかニュートン力学の性質すら満たさず、ちゃんとした物理を学ぼうとする意欲ある人を混乱させる。

ヒッグス粒子ってなあに?』
http://irobutsu.a.la9.jp/movingtext/HiggsHS/index.html
スリードをなるべく避けるヒッグス粒子の解説に関しては、このサイトの説明が素晴らしい。高校物理を学んだ程度の知識で理解することができ、水飴理論のようにちゃんと物理を学ぼうとする人間に害悪をもたらす説明がない。バネで繋がれた系はクライン・ゴルドン場の挙動をよく再現する。

では、ちゃんとQFTを経由する正攻法はどのくらいコストが必要な道のりだろう。

私もちゃんと理解しているかあやしいが、ヒッグス粒子という言葉に出会ってからからおぼろげな輪郭をつかむまでどのような経緯をたどったか参考までに書いてみよう。誰だって最初は理解していなかったはず。

第一印象:「よくわからんいつものパターン」

ヒッグス粒子という言葉を最初に知った時、私は高校の物理と数学に毛が生えた程度の到達度だった。先端物理を一般向けに説明したような本はよく読んでいた。記憶が曖昧だが以下の様な説明だったと思う。今にしてみれば満たしているのはヒッグス粒子ではないし、昨今批判されている水飴理論だ。

素粒子には本来質量がなく、原始、素粒子は光速で運動していた。真空の対称性が壊れて、ヒッグス粒子が宇宙を満たす。粒子はヒッグスに邪魔されて光速以下でしか動けなくなる。

「対称性が破れる」がなんで「ヒッグス粒子がみたされる」になるのか、つながりがさっぱりだった。「CP対称性の破れ」みたいな類似単語は耳にしていたので、「何かよくわからない対称性が破れると、よくわかない理論でよくわからない何かが起きる」といういつものよくわからないパターンかと認識し、どうせ今の学力では理解できないだろうから深入りしなかった。

質量がゼロであり光速であるものが、空間を満たす何かのせいで遅くなる現象については、よく知っているものがあった。水中の光速だ。等速直線運動のイメージとも相性がよい。

エネルギーと速度の関係については疑問が残った。水中の光はエネルギーによらずほぼ一様に減速するが、物体の速度はエネルギーの平方根に比例する。無論、光の屈折率が波長に依存するように、物体のヒッグス中の屈折率は運動エネルギーの平方根に反比例すると仮定すればE~v^2の関係が出せなくもない。今になって思えば、そんな仮定をしたところで絶対系をおいてしまっているのでどうしようもない。下手の考え休むに似たりだ。

最近ヒッグス粒子について見聞きした方の多くとさほど変わらない理解状況だったと思う。

その後はヒッグスと離れて基礎強化

それからは一般的な大学の物理学系の人間と同じようなことをやってきたように思う。BEH機構の理解に必要かもしれない道具だと、線型代数微積分学、電磁気学解析力学、相対論、量子論群論、振動波動論、複素解析、相対論的量子力学、場の量子論素粒子実験基礎 etc etc

この時間が何千時間になるか分からないが、一般的には3年くらいをイメージすればいいかと思う。私は大学に入る前からフライングで勉強していた分のアドバンテージがあったが、進振り天文学科に進んだので、後期課程(3・4年生)ではQFTはおろかただの量子論すら扱わない時間が劇的に増えた。前期課程から局所ゲージ対称性だとかその手の話に触れる機会は常にあったし、一応は後期課程でもQFT等の講義は受けていたが、一番座学が盛んな時期における勉強不足は否めない。

ヒッグス粒子と再会したのは、今回のノーベル賞の受賞理由となったゲージ場の質量起源ではなく、フェルミオンと湯川結合する粒子としてだった。「mをyに書き換えただけじゃねーか。」という第一印象。院進学以降は、素粒子物理の理解が不可欠なテーマになったので、日常的に触れるようになった。

完走に必要なのは知力ではなく、意欲だろう。不変デルタだのBRSTだのといった数式の森を抜けるには、理解したいというモチベーションが重要だった。新しい理論を生み出すならともかく、十分に整備された既存の体系を学ぶだけならセンスは必要ない。どれほど難解に見える物理であっても、科学の形で記述されている以上、提示された実験事実とロジックを丁寧に積み上げていけば、いつかは理解できるようになる。何年後になるかは当人次第だが

大雑把な概算イメージ

高校物理と高校数学をマスターするのに必要な時間を500~1000時間として、物理学の網羅的な理解ではなくヒッグスだけを目標にするなら、なんちゃって理解を得るまでに3000時間くらいあれば大丈夫だろうというイメージを抱いている。参考書もせいぜい数十冊といったところだろう。ガチでやるなら10000時間とかそれ以上の時間が必要になるだろうが、そんなのは素論の人間にやらせておけばいい。効率よくやればもっと早くなるだろうし、理工系の大学に入学した人間なら、もう二合目ないし三合目までは来たと思ってよいのでは。

質量というダイナミクス

それにしても質量というのは面白い現象だ。中学生でも理解できる概念に見えて、勉強が進むとまったく新しい様相を見せてくれる。

どれだけミクロの世界をみるかで変化する素粒子の質量

もしかすると多くの人は質量は個々の素粒子に対して不変で固有の値を持っていると思っているかもしれない。しかし、SUSYの議論などで顕著だが、電磁気力の結合定数(1/137)が見るスケールと共に変わってくように、素粒子の質量も見るスケールによって違った値となる。例えば極微の世界では同じ質量を持っている粒子が、片方は強い力*3を感じることができたばかりに、われわれの世界では異なる質量の素粒子として観測されることがある。

質量のくりこみ

縦軸は各々の素粒子の質量、横軸はスケール(右に行くほどミクロの世界を見ている)。
出典:A Supersymmetry Primer
http://arxiv.org/abs/hepph/9709356

電子ニュートリノの重さは?

また、一般にフレーバーの固有状態と質量の固有状態はズレている。素粒子の世界では、ヘリウム原子の重さは4u、水素原子の重さは1uといったように一対一対応しているわけではない。例えばニュートリノは、フレーバーが電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノの三種類あるのに対応して、質量の固有状態もν1からν3までの3種類ある。電子ニュートリノは、質量が異なる3つの質量固有状態の重ねあわせ状態として記述される。

|\nu_e> = \alpha |\nu_1>+\beta |\nu_2>+\gamma |\nu_3>

逆に、ある質量固有状態を選ぶと、電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノの重ねあわせ状態になっている。

|\nu_1 >= a |\nu_e>+b |\nu_{\mu}>+c |\nu_{\tau}>

このことは「ニュートリノ振動」とよばれる現象の重要部を占めているけど、話が発散するのでこの辺にしておこう。

最後に

以上の2つは、私が学部時代に学んだことのなかで特に新鮮に感じられたものの集合に属する。このエントリを読んで「質量」というものに興味をもち、本腰を入れて勉強をはじめる方が0.1%でもいてくれれば、非常に嬉しい。

*1:もうちょっと中身を顕に展開された式に触れたい方はこの辺を参考に http://einstein-schrodinger.com/Standard_Model.pdf

*2:mψψみたいなmではじまる項がないことに気づかれたかたもいるかもしれない。ゲージ対称性により、ラグランジアンに勝手に質量項を加える事は禁止されている。代わりに3行目にヒッグス場と物質場の湯川結合が存在している。

*3:強い力:自然界にある4つの力のうちの一つ