テニスがテニヌだったら楽しめるのだろうか?

実力が違えば勝負にならない対戦は数多あるのに、「格ゲー」や「ぷよぷよ」の類いで頓に格差問題が語られるのは何故だろう。上級者と初心者の間に恐ろしい勝率格差が横たわっていながら、楽しまれ息の長いゲームやスポーツは沢山存在している。「将棋」にしろ「チェス」にしろ「テトリス」にしろ「テニス」にしろイロレーディング換算で1000以上のプレイヤー間格差があり、上と下で仮想的な勝率は数百倍を超えるがそれが問題にされることは少ない。

格差自体は問題の本質ではない。システムを弄るなどして格差を圧縮したところで運ゲーにしかなれない。実力が拮抗していないプレイヤー同士の対戦時におけるアメニティを改善する方法として賢いものではないだろう。むしろ次のような点を指摘したほうがいいかもしれない

  1. 絶望感を与える格差:実力差がわかりやすく演出され過ぎている。永久コンボで空に浮いたままといった状況や、絶対に返せないおじゃまぷよを送ることは、傍目にも違いが明白だ。一方、テトリス対戦やオセロは上級者対戦の何が違うのかパッと見ではわかりにくい。恐るべき格差が実感できるようになるのある程度やりこんだ後だ。スマブラのように格差をわかりにくくし、なんとかすれば勝てそう、すぐに追いつけそうと思わせることが大事だ。
  2. プレイからの疎外:勝てないこと自体ではなく、何もできないままフルボッコにされることが問題。パネポンやチェスでは実力差があっても自ら考え手を動かしてある程度の時間プレイができるのに対して、格闘ゲームでは一発も当てられないまま秒殺される。何も出来ない虐殺ゲーほどつまらないものはない。コントローラー暖めてるだけだ。勝率格差が酷い状況でもプレイに参加できるのであればそれなりに楽しめる。

もしテニスがテニヌだったとしたらどうだろう。テニプリのように格差構造が誰にでもわかりやすく、実力が違えば何も出来ないまま秒殺されるだけのフルボッコゲーだったらとしたら楽しめるだろうか。おそらくメジャースポーツとして大衆に親しまれる事は無いだろう。一部の廃プレイヤーだけが楽しめる大道芸になってしまう。テニスだろうがテニヌだろうが世界ランクと初心者に恐ろしい格差があるのは事実だが、両者には決定的な違いがある。

おそらく格ゲーやぷよぷよが置かれている困難な状況の一部はテニヌ化にある。越えられない壁が何枚も続いているのがあからさますぎるし、実力差が容易に疎外に繋がってしまう。