もうコンコルドは越えられないのか

大学近くのとあるラーメン屋でのこと、浮かんでは消えるベルナール対流の無常を何気なく眺めながら、伝熱学に雑草のごとくフサフサと繁茂している無次元数に思案を巡らせていた。ヌルセット数、エケルト数、ヤコブ数、ウェーバー数、ボンド数、ルイス数、・・・・自己相似によって特徴付けられる領域は無次元数が大量に算出される鉱脈だ。

ラーメンのスープは何時間も火に掛けても焦げないのに、カレーやシチューが焦げるのは何故だろう。動粘性か熱伝導率かそれとも別の何かが決定的な変数なのか?どのような無次元量が焦げる、焦げないの臨界点を作り出すのだろう。たとえば、他の物性値は変わらずにシチューの密度が1/1000だったらどうなるか。たとえば、無限に広い空間(z>0をシチューがx方向に流れていたとして、z=0の平面からP=100W/m^2で炙ったら焦げるだろうか。

シチューのレイノルズ数を考えはじめた頃、不意に言葉が飛び込んできた。

「超音速機があればSさんも、もっと自由な時間が増えるのにね」
「確かに」

S さんは複数の国の研究機関のスタッフをしており、参勤交代よろしく1年に20回は出張している。1回の飛行を12時間とすれば1年間で240時間が移動だけに捨てられることになる。超音速旅客機があれば、dead time を大幅に回収できるだろう。Sさん以外にも仕事で世界中を飛び回る人たちは沢山おり、需要は別にエクゼクティブな連中に限らない。

経産省予測ほどバラ色ではないかもしれないが、超音速機を必要としている人たちは存在するだろう。そして作るだけなら資本を積めばいくらでも生産できる。超音速旅客機の技術コアは50年前には存在していた。しかし軍用機ならともかく、まともな神経回路の営利企業が手を出す代物ではない。

コンコルドやTu-144の奇跡は時代が生んだ残滓のようなものだ。残されたつけ麺のスープの残骸のように独特の時間と哀愁と漂わせている。

「超音速機が許されるのは小学生まで・・・」

ラーメンの上をネギがゆっくりと移動した。温度差によって発生する弱々しく微少な力は液面の模様を時間発展させていく。薄暗い照明にキラキラと反応する油の液滴はテスト粒子のように速度場をアピールし、誇らしげに漂っている。

「○×△・・・・」(記憶不詳)

超音速機が採算のとれるビジネスになるには越えるべき課題が山積している。課題はシラス台地につもる灰の量に等しいが、それを莫大な投資と時間で頑張って乗り切ったところでビジネス的に美味しいものはない。

衝撃波と騒音の問題は真っ先に上げられる問題だ。亜音速の大型旅客機なら今日も巡航高度である上空10000mを今日も何機も通過した筈だが、地上にいる私が気づくことはない。しかし、超音速機は、たとえ高度20kmの成層圏を飛行しても、地上に衝撃波が到達することは避けられない。雲一つない青空に突然稲妻のような爆音が轟き、窓がガタガタと揺れる。上空を見上げると既に地平線に近づきつつある超音速機の細い飛行機雲がたなびいている。そんなことが毎日続くとしたら、とても飛行許可はおりない。衝撃波の影響を受ける範囲は実に100kmに及ぶ。

事実、コンコルド海上でしか超音速飛行を許されていないし、アメリカで超音速機の計画が頓挫した主要な理由の一つだ。将来的に計画される300人の乗客を運ぶSSTは単純に作るとさらに騒音が大きくなる。

「そう言えば、ブーゼマン翼による超音速複葉機というものがあって、2つの翼による衝撃波を干渉させて打ち消すことで8割騒音を減らすとか・・・。NASAが匙を投げた技術だけどね。」

どうも、話が噛み合っていない気がする。コミュ力以前に、まだ「ラーメンスープの焦げ問題」が実行状態でタスクバーに常駐しており、心ここにあらずといった感じだ。

各国とも衝撃波による騒音を減らすための技術開発に鎬を削っている。ブーム圧のピークを潰す研究や、より騒音が小さくなるように機体の形を工夫する研究は続いている。しかし、大型SSTが地上を飛行できるほどの大幅な削減となると5年、10年で出来る技術ではないだろう。衝撃波の地上への到達が大幅に緩和されるマッハ1.2くらいで飛ぶという、超音速機の目的を大幅に殺した本末転倒な方法もある。回転率が通常のジャンボの1.5倍になるが、運用コストや燃費を考えると採算は微妙だ。似たような発想で、マッハ0.95ぐらいて飛ぶボーイングソニック・クルーザーがあったが同時多発テロの余波と経済性を理由に中止されてしまった。

NASAが中止した技術となると、挑戦してみる価値がありそうだ」

現状、ブーゼマン複葉機にも課題はたくさんある。そもそものブーゼマン翼は安定じゃないし揚力もない。衝撃波が打ち消せる条件が厳しく、実際の飛行機に適用することは簡単ではない。

超音速機の抱える他の課題は、軽くて熱に強くて丈夫な素材を開発するのが難しいこと、燃費が馬鹿にならず恐ろしいほどのコストがかかることなどがあるだろう。コンコルドの運賃は1万ドル以上した。燃料が高騰していくこれからの時代には向かない代物かもしれない。軽くて安くて丈夫な素材が必要だ。超音速飛行でコンクリートのように堅くなった大気を切り裂くコンコルドの表面はオーブンのように熱くなったという。アルミ合金は熱に弱い、チタンは高いし重い、とても軽い複合剤は以ての外。過酷な熱環境に耐えられる複合剤があれば、タンクの設計も失敗することなく、いまごろスペースシャトルの後継機であるベンチャスターが宇宙に飛んでいただろう。

超音速旅客機は10年先の未来ではない、でも50年ならもしかすると。そんな淡い感想を残しながら店を出た。