共有地の悲劇

ある本を読んでいて「学問としての環境学は可能か」という懐かしいフレーズを思い出す。"環境"界隈で"痛い言説"や"痛い子"が多発するメカニズムについては幾つか議論されている。単純に内容の複雑さの割りに素人が入りやすい分野であるというのもあるし、いわゆる"世界市民"な方々が集まってしまうというのもある。(どうも""で逃げる文章になってしまう。)

環境学はある一つのモデル規範をもった"科学"として確立しうるかの議論については難しいところだが、現状では少なくとも"自然"科学ではない、単なる政治でもなければ、経済学や社会学でもない、疑似科学でもなければ、信仰でもない。ただ"学際"というゲットーに閉じ込められ一方的に収奪される乱獲漁場。

環境学がもっとストイックに且つ、確立された体系として自分達の国をもつことを期待する。