ぷよぷよ:グローバル化と専門化の中で

格差があからさまに曝されていることの弊害、のようなことを述べている方がいましたっけね。昔は「井の中の蛙」だったり「お山の大将」であったりできたが、情報社会が発達した現代においては「世界の頂点」レベルとの格差をいきなり見せつけられて萎縮してしまう人が多いのではないか、という話。まあこれはすべての事柄に言えるわけですが。あと逆に奮起する人もいるだろうけど、見せつけられるのが早すぎると早々にリタイアするとか。

格差はわかりにくく包む。何事にも言えることですね

数日前のコメント欄より。少し長くなるのでエントリに。とりあえず、世界レベルとの格差の話と、友人同士との格差の話は分けたほうがよさそう、ビルゲイツの資産より同窓会での年収順位とはいうめれ。あと、世界の頂点をいきなりもってくるよりは中間層の話もいれた方がいいのかな。

お山の大将の例:111勝0敗になっているが、2ポイント先取なので格差が拡大されているだけで無双している訳ではない。60戦に1回は負けるので平均して1200試合2440戦に一回は敗北する計算。だいたい70時間に1回負ける。写真は右の強さが残念なこともあるけど、左の強さもオンラインというグローバル市場の中ではwifi-R1000(通)程度の底辺層という話。

すこし前に一部界隈であった話題を適当にまとめてみる。

昔は村で一番将棋が強いとか、校内でトップ成績みたいなお山の大将が沢山存在できた。ランキング志向の人間はそれによって小さな満足という見返りを得る事ができ、小さなゴールを積み上げることで上昇していく事ができた。しかしインターネットの存在によって全てがグローバルでフラットな市場に上げられることとなり、世界最高クラスのプレイ動画や伝説をいきなり見せつけられてしまう。いったん世界統一ランキングに放り込まれてしまうとどれだけ頑張っても一番にはなれないし、古参ばかりで負けが積もる。全国ランキングが50000番から30000番になったところで強い満足は得られない。自分が巨大な市場のなかでは凡百の一つに過ぎない事をなんども思い知らされる。最上位層は最上位層で別の変化が現れる。距離の制約から解き放たれて24時間体制でお互いに刺激を与え合いながら競争はさらに激化し、一般人の手の届かないレベルまで行ってしまう。ピラミッッドの頂点はちぎれて宇宙の果てまで飛んでいく。

ネットはリアルと違い興味の無い情報を遮断しやすいためコミュニティは同類者の島宇宙に分断される傾向にあり、コミュニティは極めて狭くなっている。ピラミッドは恐ろしく細く鋭く変形し、専門化した無数の島宇宙に分断されている。すぐ隣のコミュにすらまったく知られることのない「世界最強」と言う名のカリスマが各々の島宇宙の中に君臨している。友人相手じゃ負け知らずだが、世界ランク頂点は先鋭化しどれだけ頑張っても届く訳が無い。中間には不可視なグローバル市場の砂漠が広がっている。

かくして、グローバル市場と島宇宙化は進行し、自分-友人-世界ランクという中間層の欠落した「セカイ系」批評の枠組みに沿ったゲーム階級感が誕生する。議論の発端である羽生善治の決断力を読んでいないので、なんとも言いがたいがこんなあたりかな。

決断力 (角川oneテーマ21)

決断力 (角川oneテーマ21)

情報考学 Passion For The Future

後半で感銘した一節。才能とは何か。

「どの世界においても若い人たちが嫌になる気持ちは理解できる。周りの全員が同じことをやろうとしたら、努力が報われる確率は低くなってしまう。今の時代の大変なところだ。何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは大変なことであり、私はそれこそが才能だと思っている。」
この文章を読んで、そうした継続できる情熱が育ちにくくなっているのが現代なのではないかと思った。情報化社会では、個人の才能はすぐに全国、全世界の統一ランキングのどこかに位置づけられてしまう。最初から上位になれる人は稀だ。大抵は何千位や何万位から始まる。それでは嫌になってしまう。
かつては統一ランキングが見えなかったので、各地域のトップ、地域の秀才がそれなりに満足して存在することができたように思う。地域のトップに到達すると、さらに上の広い世界のランキングが見えて、新たな挑戦が始まっていた。徐々に拓ける世界展望というモデルが、多くの才能を育てていたのではないか。
羽生は地域の将棋大会の広告を小学2年生のときに目にしたのがきっかけで、最初の勝負に負けたが、それから、
「十五級から道場に通うごとにクラスが上がった。今考えると、目標への達成感が、私を将棋の世界へ没頭させるきっかけの一つになったと思う」
「一つのことに打ち込んで続けるには、好きだということが根幹だが、そういう努力をしている人の側にいると、自然にいい影響を受けられるだろう」
などと述べている。

【刺身でぐぐると】刺身☆ブーメランのはてなダイアリー【世界で五位】
「モヒカン族」に関する言及 -モヒカン族
これは、ネットがオフラインに比べて、情報の遮断が簡単すぎるから、興味のあるごくごく一部の出来事だけにダイレクトにアクセスできてしまい、その世界が全て、に見えてしまうんじゃないかと思う。RSSリーダとかは、効率よく自分の興味のある情報にアクセスする手段で、究極的には興味のない情報を遮断していくものだともいえるから、今後そういう「島カリスマ」の影響力はどんどん強まっていくと思う。

http://iwatam-server.dyndns.org/column/68/

例えば、「俺は県の大会で一位になったんだぜ!!!」と自慢気に言う人を見かけたら、なんだかちっぽけな自慢に見えないか?実際のところ、県で一番というのはすごい事なんだが。自慢できる事の最低ランクが「日本一」になってしまっている。これがセカイ系である。

これは、テレビをはじめとするマスメディアの影響なんじゃないかなぁ。テレビが日本で一番すごい奴ばかりを取り上げて放送するから、我々の頭の中には日本一の奴しか思い浮かばない。逆に、身近な話題というと本当にくだらない身近な話題しかない。「日本一」と「身近」に二極化して、その中間がなくなってしまった。
「人間、なんでも一番にならなくちゃいかん」と言う人がいる。老人にとってはこれは真実であり、批判すべきものではない。彼らの「一番」はせいぜい「村一番」だからだ。しかし、今の人間には「一番」というと「日本一」しか思いつかない。そんなのなれるわけねーだろ。しかし、たまに「なれる」と思い込むバカがいて、イラクへ行って人質になってみたり、マルチ商法に引っかかってみたり、「株で一億円儲ける」と言って逆に多額の借金をこしらえたりする。

(中略)

セカイ系の特徴は、一番と普通の2種類の概念しかなく、そこに中間のステップが存在しないことだ。だから着実に階段を昇っていくという概念がない。階段が1段しかなくてそれが絶壁のように高くなっている。この絶壁はすごい能力の持ち主かあるいはとんでもない偶然でしか登れない。あるいは、登らなくても頂上に到達できるような掟破りの裏技を探すかである。

一番でなければ意味がないと思っているから、負けることを恐れない。既に負けていて、もはや失うものが何もない(と思っている)からだ。普通の人は階段を昇っているから、少しでも階段を昇るとそこから落ちる恐怖が生まれる。しかし、セカイ系の人には階段は1段しかなく、既にどん底まで落ちているか頂上に昇っているかの2通りしかない。だから落ちるのは全然恐くない。

その絶壁を見て多くの人は絶望して、「登れなくても仕方ねーや」と思ってしまう。登ろうという気力すらなくなってしまう。そりゃそうだ。登るのはほぼ不可能なんだから。しかし、登山は頂上に着けなければ意味がないわけではない。そこに山があるから登るのだ。地道に階段を登っていれば、見晴らしのいい景色もたまにはあるし、一服して食べる弁当もまたおいしい。頂上までたどり着けなくてもそれはそれでいいのだ。

賭博黙示録カイジの遠藤先生

例えばバスケットゴールのゴールが百メートル上空にあってみろ?
誰もボールを投げようとはしない。
今のお前は、その届かないゴールにウンザリしてる。
欲しいものがあっても、全部ショーウインドウの向こう側。
お前には届かない。
その買えないストレスがお前から覇気をなくし、真っ直ぐな気持ちを殺してる。
 
今回だってそうだ。
これほどの救済策に関心を示さない、
負け癖が染み付いてる証拠だ。

このクルーズはそんなお前の負け癖を一掃する良いチャンスだ。
なぁカイジ

Nao_uの日記 - ワールドランキングと達成感
格闘ゲームのオンライン対戦をやったときに自分も似たような経験をしたことがある。ネットで対戦するような人とは実力差が激しく、やってもやっても負け数のカウントのみが増え続ける。

ARTIFACT -人工事実 
 XboxLive対応のゲームをやって、確かにこれは感じました。自分の場合、『ファントムダスト』だったんですけど、どんどん増えていく負けの数。数少ない一勝にほっとする気持ち。あとから、参入した人間の前には絶望的な壁がそびえ立ってます。
 カーレースゲームの『Forza』では、XboxLiveに繋げていると一番最初に表示されるのは世界規模のタイムスコアで、自分のタイムのあまりの悪さに非常にいらつくという。しまいにはLANケーブル引っこ抜きますよ!

人工現実はこの手の起点、とある官僚系ブログの方が世界経済と絡めて何か書いているようだけど割愛。